霞が関通信

地下鉄サリン事件後の消防庁の対応

自治省消防庁救急救助課

(プレホスピタルケア 8:3 17号 85-90, 1995)

 


1 事件当日の消防機関の即応の概要

 平成7年3月20日8時過ぎ、営団地下鉄の多数の車両において、何者か毒性物質を放置したため、ほぼ同時多発的に有毒ガス発生事件が発生し、通勤途上の乗客、駅員ら多数が卒倒、嘔吐、目の痛み等の中毒症状を呈し、死者の発生をみるに至った。

(1)被害発生箇所

<日比谷線>

 茅場町駅、八丁堀駅、築地駅、神谷町駅、小伝馬町駅、人形町駅、恵比寿駅

<丸の内線>

 中野坂上駅、荻窪駅、本郷三丁目駅、赤坂見附駅、中野富士見町駅、新高円寺駅

<千代田線>

 国会議事堂前駅、霞ヶ関駅

(2)救急救助活動の概要

 営団地下鉄の上記15駅を中心に、延ベ340隊、1,364人が出動して傷病者の救出・救護ならびに有毒ガスの分析、液体の洗浄活動に従事した。340隊中救急隊は131隊が出場し、救護した被災者692人のうち688人を医療機関に搬送した。

(3)被害状況

 死者11人、重症53人、中等症984人、軽症4,073人、程度不明391人。

(4)消防職員の被災

 救急救助活動時に適切な情報がなかったため、消防職員135人が被災し、うち中毒症が43人、軽症が92人であった(警視庁が事件の原因物質はサリンである可能性が高いと発表したのは、事件発生後およそ3時間後の午前11時頃であった)。

 

2 当日の対応

 消防庁においては、迅速に情報収集を行うとともに、前例をみない有毒物質による災害であることを重要視し、長官名により同日付けで、全国の消防防災機関に対して同様の事件再発の蓋然性について注意を喚起する通達を発した(通知文省略)。

 

3 救助・救急活動の安全確保に関する通知

 救急救助課においては、以後同様の事件が発生した場合において、消防職員の被災を防止することを目的として、事件発生時に消防職員が安全管理上留意すべき事項について通知した。


消防救第43号

平成7年4月6日

都道府県消防主管部長殿

消防庁救急救助課長

毒性ガス発生事件における救助救急活動の安全確保について

 

 去る3月20日、東京都内の地下鉄車内で発生した毒性ガス発生事件において、救急活動等のため出場した消防職員の内135名が毒性ガスにより受傷するに至ったところである。

 日頃から消防職員の安全管理については、十分留意いただいているところであるが、今後、類似事件が発生した場合における活動の安全確保について下記の点に留意の上、一層の安全管理に努めるよう貴管下市町村(消防の事務を処理する一部事務組合を含む。)を指導されたい。

  1.  毒性物質は、呼吸器はもとより皮膚・粘膜等からも吸収されるので、安全確保のためには、汚染物質を濾過する機能を持った呼吸保護器具又は空気呼吸器、酸素呼吸器により、呼吸の安全を確保するのみならず皮膚・粘膜等を露出しないよう衣服・ゴム手袋等を確実に着装する必要があること。
  2.  119番通報の内容や現場の状況から、毒性物質による影響があると判断した場合は、ただちに上記の安全確保措置を講じた隊等が対応することとし、その他の隊は不用意に近づかない等細心の注意を払うこと。また、陽圧式の毒劇物防護衣を保有する隊を積極的に活用するとともに、時機を失することなく自衛隊等の専門家の派遣を要請すること。
  3.  毒性物質に汚染された防護衣は、活動のつど大量の水で洗い流すこと。

     また、衣服等については、ポリエチレン製のごみ袋に分別して持ち帰り、中性洗剤により洗浄した後、大量の水で洗い流すこと。

  4.  既存の防護用資機材の整備状況に応じ、 毒劇物防護衣、呼吸保護器具等安全確保用装備を緊急に充実することについても配慮すること。


また、4月11日には救急指導係長名でサリンの書性等について参考送付を行った。


サリンの毒性等について

自治省消防庁救急救助課

1.名称

サリン

2.性状・外観

・純粋なサリンは、無色無臭の液体または気体である。

・神経ガスは一般に水溶性は中程度で、脂溶性が高い。

・数時間で蒸発し、分散する性質をもつ液体であるため、環境への蓄積はないと考えられている。

・強アルカリ性物質や含塩素化合物によって、速やかに不活性化される。

3.用途

化学兵器(神経ガス)

(第二次世界大戦時にドイツと英国で開発)

4.毒性

ヒト吸入半数致死濃度(LC50)70mg/m3

ヒト皮膚(暴露)半数致死量(LD50)28mg/kg

5.中毒学的薬理作用

 サリンは不可逆的にアセチルコリンエステラーゼと結合し、自律神経節、中枢神経系、神経筋接合部にアセチルコリンを蓄積させ、レセプターの過剰刺激症状を引き起こす。

[ムスカリン様作用]

・瞳孔の収縮

・分泌腺刺激

・消化管、気管支及び膀胱の平滑筋収縮

・洞房結筋及び房室性伝導の遅延

・心室性不整脈

[ニコチン様作用]

・筋線維性攣縮

・脱力・麻痺

6.体内動態

〔吸収〕

 サリンは吸入、皮膚暴露、経口によって、全身症状を引き起こす。また、パラチオンよりも毒性が強く、パラチオンと同様、眼の暴露によっても全身症状を引き起こすと考えられている。

〔代謝)

 マウスの実験では、大部分が腎臓で解毒されたという報告がある。

〔排泄〕

 マウスの実験では、大部分が腎臓から排泄されていた。

7.中毒症状

〔概要〕

 純粋なサリンは、無色、無臭の液体または気体で、非常に作用が速く、吸入、皮膚暴露、経口によって、全身症状を呈する。

 時に、眼の暴露によっても全身症状を呈すると考えられる。

 症状は、有機リン剤中毒と同様である。

 有機リン剤は、一般に小児では成人に比較して、症状の発現に顕著な違いがあり、感受性は、成人よりも子供の方が高い。

 サリンが酸そのものや酸性溶液に接触すると、フッ化水素を遊離する。

〔眼〕

 サリン暴露で縮瞳が引き起こされる。

 サリン製造時に発生する中間体のDifluoro体では、眼に対する刺激が強く、視力障害が残ることがある。

〔蒸気暴露〕

 低濃度のガス暴露では、数秒から数分の間に、縮瞳、視覚障害(うす暗いとか、ぼんやりするなど)、鼻漏、各種の程度の呼吸困難を来す。

 汚染区域から移動できればそれ以上は重篤化しない。

 高濃度のガスでは、1〜2分で意識消失し、その後、痙攣、弛緩性麻痺、無呼吸を来す。

〔皮膚への暴露〕

 致死量に近い量で有れば、意識消失、痙攣、弛緩性麻痺、無呼吸を起こす。

 症状の発現は10〜30分の無症状期の後に突然おこる。

以下に有機リン剤中寺の一般症状を示す。

 

(サリンが全ての症状を呈するとは限らない。)

〔ムスカリン様症状〕

 流涎、発汗、流涙、尿便の失禁、下痢、縮瞳、疝痛性腹痛、しぶり、嘔気、嘔吐、徐脈、AVブロック、血圧の低下、気管支粘膜からの粘液過剰分泌、気管支痙攣

〔ニコチン様症状〕

 筋線維性攣縮、筋の痙攣、筋力の低下、弛緩性麻痺、反射消失、頻脈、血圧の上昇、呼吸不全、呼吸停止

〔中枢神経系症状〕

 頭痛、不穏、運動失調、興奮、痙攣発作、不眠、昏睡、反射消失、呼吸抑制(呼吸筋麻痺)、精神障害

〔その他〕

 体温の上昇(37〜38度)

 心筋炎

 頻呼吸(30/分以上)の報告

 呼気にニンニク臭のすることがある。

8.治療法等

(1)治療薬

 1.硫酸アトロビン

  ムスカリン様作用にのみ括抗する。

 2.PAM(2−Pyridine aldoxime methiodide)

  アセチルコリンエステラーゼ活性を速やかに復活させる。

  末梢のニコチン様作用には効果がある。

(2)基本的処置

 皮膚暴露:よく吸収されるので、石鹸と水で3回洗浄。

 10倍に希釈した漂白剤、アルコール等使用するとより効果的である。

 眼への暴露:眼に暴露した場合には、微温湯で15〜20分以上洗浄すること。

9.救急搬送時の留意点

 サリン等の有毒化学剤による影響は、迅速かつ進行性であり、呼吸器、皮膚・粘膜等から吸収されるとともに、液体に触れると皮膚から吸収され、微量でも致死的である。また、水に溶けると効力を失うなどの特徴がある。

 したがって、有毒化学剤により傷害を受けた傷病者の搬送にあっては、以下の点に特に留意された。

  1. 皮膚・粘膜等を露出しないよう衣服・ゴム手袋等を確実に着装すること。特に液体には直接触れないよう細心の注意を払うこと。
  2. 傷病者を救急自動車に乗せる際には、汚染された衣服等は除去し、車内に汚染物質を持ち込まないよう留意すること。
  3. 搬送途上では、救急自動車内の換気を十分に行うこと。
  4. 救急自動車内が汚染された場合には、大量の水で洗い流すこと。

 

4 サリンの原料となり得る危険物に関する通知

 危険物規制課においては、サリンの製造に使用される可能性のある消防法上の危険物の一部を貯蔵し、又は取り扱っている製造所等への許可や検査に関し、適切な措置が講じられるよう通知した(「サリンの原料となり得る危険物について」平成7年4月20日付け消防危第35号 消防庁危険物規制課長発各都道府県消防主管部長あて)。

 

5 「サリン等による人身被害の防止に関する法律」施行通知

 地下鉄サリン事件にかんがみ、サリン等の製造、所持等を禁止するとともに、サリン等を発散させる行為についての罰則およびサリン等の発散による被害が発生した場合の措置等を定めることを目的として、上記法律が平成7年4月21日に公布、施行(条文の一部は除く)された。

 このため、消防庁長官名および救急救助課長名で、この法律の施行について文書にて通知し、都道府県および消防機関への周知徹底を図った。


消防救第51号

平成7年4月21日

各都道府県知事殿

消防庁長官

サリン等による人身被害の防止に関する法律の施行について

 

  サリン等による人身被害の防止に関する法律(平成7年法律第78号、別添参照)が、平成7年4月21日に公布され、即日(第3条第2号並びに附則第4条の規定については化学兵器の禁止及び特定物質の規制等に関する法律(平成7年法律第65号)の施行の日に、及び第5条から第7条までの規定については5月1日に)施行されることとなった。

 この法律は、サリン等の製造、所持等を禁止するとともに、これを発散させる行為についての罰則及びその発散による被害が発生した場合の措置等を定めることを目的としたものである。

 貴職におかれては、下記事項に留意の上、その運用に遺憾のないよう配慮されるとともに、貴管下市町村(消防の事務を処理する一部事務組合を含む。)に対してもこの旨示達され、よろしく御指導願いたい。

1 サリン等の発散による被害発生時等の措置に関する事項(第4条第1項関係)

(1)消防吏員は、サリン等又はサリン等である疑いがある物質の発散により人の生命又は身体の被害が生じており、又は生じるおそれがあると認めるときは、消防法の定めるところにより、直ちに、その被害に係る建物、車両、船舶その他の場所への立ち入りを禁止し、又はこれらの場所にいる者を退去させるとともに、サリン等を含む物品その他のその被害に係る物品を回収し、又は廃棄し、その他その被害を防止するために必要な措置をとらなけれぼならないこと。

(2)(1)の場合において、消防吏員は警察官又は海上保安官と相互に緊密な連携を保たなければならないこと。

2 関係行政機関等の協力関係に関する事項

(第4条第2項関係)

 第4条第1項の措置に関し、消防長又は消防署長は関係行政機関又は関係のある公私の団体に対し、技術的知識の提供、装備資機材の貸与その他必要な協力を求めることができること。

3 国民との協力関係に関する事項(第4条第3項関係)

 国民は、サリン等若しくはサリン等である疑いがある物質若しくはこれらの物質を含む物品を発見し又はこれらが所在する場所を知ったときは速やかに消防吏員等にその旨を通報するとともに、消防吏員等が行う第4条第1項の措置の円滑な実施に協力するよう努めなければならないこと。


消防救第52号

平成7年4月21日

 各都道府県消防主管部長殿

消防庁救急救助課長

サリン等による人身被害の防止に関する法律の施行について

 

 標記については、平成7年4月21日付け消防救第51号消防庁長官通知によりその適切な運用の周知方をお願いしたところであるが、貴職におかれては、なお下記事項について貴管下市町村(消防の事務を処理する一部事務組合を含む。)に対してよろしく御指導願いたい。

  1. 消防及び警察の相互の情報提供について

     これに関しては、消防及び警察が、サリン等若しくはサリン等である疑いがある物質若しくはこれらの物質を含む物品の所在に関する情報を知ったときには、速やかにその情報を相互に提供するものであること。

  2. 「サリン等」の定義に関する事項(第2条関係)

     この法律の対象となる物質は、サリン及び第2条第1号から第3号のいずれにも該当する物質で政令で定めるものとされているが、当面、当該政令は定められないものであること。

  3. サリン等の発散による被害発生時等にとるべき措置の実施に当たって留意すべき事項(第4条第1項関係)

     サリン等又はサリン等である疑いがある物質の発散は、消防法第36条の災害に該当するものであり、また、第4条第1項に定める措置については、消防法上消防吏員に認められている権限に基づくものであること。

  4. 関係行政機関への協力依頼に関する事項(第4条第2項関係)

 第4条第1項に定める措置に閑し、関係行政機関又は関係のある公私の団体に対し、技術的知識の提供、装備資機材の貸与その他必要な協力を求める場合は、直ちに当職に報告されたいこと。


6 今後の課題

 サリン等の有毒物質発生時における救助救急活動に不可欠な防毒衣、防毒マスク等について、全国の消防本部に配備するのは費用対効果の面で問題が多い。しかし、全国どこで発生しても上記の資機材を一定数確保できる手段について検討する必要がある。

 また、消防職員の2次災害を防止するという観点からも、サリン等の有毒物質の情報について、関係機関との間で相互提供することで迅速に収集する必要がある。