霞ヶ関通信

応急手当の普及

自治省消防庁救急救助課

(プレホスピタルケア 5:2 9号 59-60, 1992)


1 一般市民による応急手当の必要性

(1) 救急業務の状況

 わが国における救急業務は、平成3年4月1日現在、全市町村の94.6%に当たる3,066市町村で実施され、4,000を超える救急隊により、国民の99%以上がカバーされている。また、救急車が通報を受けてから現場に到着するまでの平均時間は5.7分(医療機関収容までは平均21.7分)となっており、迅速な出動および搬送体制の維持に不断の努力が払われている。

 さらに、平成3年8月には消防庁告示「救急隊員の行う応急処置等の基準」の改正により、救急隊員の行う応急処置の範囲が拡大され、傷病者の救命率向上のため、救急現場および救急自動車内でより高度な応急処置を施すことができるようになった。

 このようにわが国の救急搬送体制の整備状況と迅速性はともに世界的水準にあり、欧米に比べ不十分であると言われてきたプレホスピタルケア(救急現場・搬送途上における応急処置)についても、現在その充実のための様々な取組みが行われている。

(2) 「空白の5分間」

 しかし、傷病者の救命率向上のためには、このような消防機関の行う救急業務の改善だけでは不十分である。

 現状では、傷病者は救急事故発生から救急車到着までの5分あまりの間、適切な応急手当が施されずに放置されていることが多いと考えられるが、傷病者の呼吸・循環機能が停止していた場合、5分あまり放置されることは脳が回復可能な損傷を受けることを意味し、致命的である。万一、命をとりとめたとしても、著しい後遺症に悩まされることが多い。

 このことは医学的にも認められており1966年のWHOの報告書のなかで米国のドリンカー博士が明らかにした、呼吸停止が起きてから応急手当の開始までに要した時間と救命率との相関関係(ドリンカーの生存曲線と呼ばれる)によれば、呼吸停止1分後にCPR(呼吸・循環機能の停止したいわゆる仮死状態にある傷病者に対して実施する、下顎を上げる気道確保、口対口の人工呼吸、掌で胸部を圧迫する心臓マッサージ等呼吸・循環機能を回復させるための応急手当をいう)を開始すれば、97%の者が救命されるのに対し、3分後では75%、5分後では25%と時間経過とともに救命率は低下し、10分後には0%となるとされている。

 消防機関では、覚知から現場到着までの時間を少しでも短縮しようと迅速な出動体制の確保に努めてはいるが、交通事情等を考慮すると、現在5分あまり要している現場到着時間の短縮はかなり困難と考えられ、救急隊の努力だけでは救命率の向上にも一定の限界がある。

 

2 一般市民による応急手当の有効性

 したがって、救命率をさらに向上させるためには、一般市民の協力を得ることがどうしても必要となってくる。すなわち、救急車が到着するまでの「空白の5分間」に、呼吸・循環機能の停止した傷病者に対し、一般住民によって適切な応急処置が施され、その後救急隊によるより高度な処置がなされることとなれば、救命率は格段に向上すると考えられる。

 実際に、1984年の米国のデータによれば、一般市民のCPRからバラメディック救急隊員に引き継がれた呼吸・循環機能停止状態の傷病者の生存退院率は24%、一方、呼吸・循環機能停止後、バラメデイック救急隊員到着まで放置されていたものは6.7%となっている。

 このように救急事故現場での一般市民による応急手当の普及は、それに引き続く救急業務の)効果を高め、救命率の向上に大いに役立つものであると同時に、地震等の大規模災害発生時における自主救護能力の向上にも資することとなる。

3 一般市民に対する応急手当の普及啓発活動

 このため消防庁では、昭和57年から厚生省、日本医師会と共賛で毎年9月9日を「救急の日」と、またこの日を含む1週間を「救急医療週間」と定め、国民の救急に対する意識高揚を図っている。各消防機関においても、「救急の日」を中心に、応急手当の知識・技能を有するベテラン救急隊員を講師として、応急手当講習会や救急フェア等を開催し、一般市民に対する応急手当の普及啓発に努めている。

 また、わが国における応急手当の普及啓発については、特に決められた実施機関がないため、他の機関においても独自に活動を実施している。たとえば、日本医師会・日本救急医学会においては「救急蘇生法の指針」を策定し、わが国における救急蘇生法のあり方について一定の基準を示しているほか、実践面においても各自治体、地域医師会等の主催する講習会の講師として講演、実技指導を行っている。また、日本赤十字社においては一般の講習のほかに、講習会の講師となるボランティアの指導員の養成を目的とした講習会も実施している。そのほか、文部省では安全指導または保健体育の授業において中・高校生を、警察庁では運転免許センター等の講習会において運転免許取得者を対象に普及啓発を行っている。

4 今後の課題と消防庁の取組み

(1) 消防機関の行う普及啓発活動の課題

 消防機関の行う応急手当講習会等の参加者は相当数にのぼっているが課題も多い。

 現在、応急手当の普及の実践は各消防機関により行われているが、活動内容等の明確なガイドラインがなく、地域により教育レベルがまちまちとなっているため、一定の基準を定めてより系統的かつ効果的な普及啓発活動の推進に努める必要がある。他の機関の動向等も踏まえ、国において消防機関の行う応急手当普及啓発活動の対象者、普及項目等を明確にするなどして効果的な普及対策を進める必要があると考えている。

(2) 消防庁の取組み

 傷病者の救命率の向上のためには、応急手当のなかでもCPRの修得に主眼を置くことが重要であり、かつ救急事故現場で適切に実施できるよう、訓練用人形等を用いて実習できるような体験型の講習とする必要がある。

 このような普及啓発活動を促進するため消防庁では、財団法人救急振興財団等と協力しつつ、啓発活動の標準的なカリキュラム、具体的な指導手法等について調査・研究を行うとともに、蘇生訓練用人形等の普及啓発用資機材の全国的な配備にも努めている。

 また、救急出場件数は今後さらに増大する情勢にあり、出場の合間に応急手当の指導を行う救急隊員の負担も増大する。したがって応急手当指導者の確保も今後の普及促進に当たっての重要な課題であることから、指導者養成講習会の開催や指導者斡旋システムの構築等指導者確保策についても検討を行うこととしている。